エヴァ次回作を具体的に予想した
・始まりの舞台は14年後の第3村(もう村じゃなくて町になってる)
・誰が主人公とかはない群像劇
・メインの一人は14年後の加持リョウジJ r.28才
・あとは綾波にカブとジャガイモ拾ってあげたあの少女18才
・鈴原ツバメ14才
・その世界でエヴァシリーズの話は誰もが知ってる「神話」として扱われている
・テーマの一つは、「ウィルスとの共存」
・今後の現実世界のコロナウィルスと人類の戦いがエヴァのマイナス宇宙を通じて作品世界に投影される
・加持Jr.は、シンジとピアノも弾いていて、釣りもしていて、ケンスケから勉強も教えてもらって「科学者」であり「神主」になっていて‥
・監督は庵野秀明以外の誰か。
・匿名複数人体制
2035年3月
・その頃にはコロナ収まってるといいですね。
・福島の復興も進んでるといいな。
・スタジオカラーの経営ももってるといいな。
・アニメーションの技術も実写との融合方法もどんどん進展してるといいな。
・主題歌は、2035年に大人気の匿名シンガー。
・今のAdoみたいな存在感の人。
・そんな才能もどんどん出て来てるんだろうなー。
・オープニングは、2035年時点で最高の技術を使ったいわゆる「エヴァ」っぽい機体同士のバトルが10分間。ここで観客は一気に引きずり込まれる。
・しかし、その映像は鈴原ツバメ14歳と難産で生まれた子14才が見ていたVR映像だった。
・どうだった?と聞く先輩のカブジャガイモ少女18才。
・家の外はウイルスが蔓延していてマスクをしないと長くは過ごせないため、ますますFPSやソシャゲが人々の交流の場になっていた。
・第3村は14年で奇跡的な復興を遂げており、2035年時点の福島と同じ程度の街に復興している。
・しかし、まだ復興できていないエリアも森の中に残っている。
・この森の入り口では加持Jr.28才が神主として神事を取り扱い、科学センターのリーダーとして復興とウイルス対策ワクチン開発に取り組んでいる
・森の中にはオオカミ(大神)がいると伝えられており、人の不敬に対してはエヴァの形になって災いをもたらすという言い伝えがある。
・登場キャラはみんなマスク(仮面)をしたり外したりする
・基本は二話完結が13セットの全26話。
・日常系テイストのNetflix奇数回とスペクタクル系テイスト映画館偶数回が2話ずつセットで2週間に一回の世界同時配信。
・2話とも見た方が面白くなるように作られている。
・でも、単体で見ても面白く見れるよう一応完結している。
・2035年時点の観客を強力に惹きつけるコンテンツである必要があり、昔からのファンを納得されるコンテンツである必要がある。
…言うは易しってやつですね。
エヴァ次回作を作る可能性は残されていますが、
それを作るにはとてつもなく高いハードルがいくつもあると分かりました。
妄想が止まらない。
こんな作品初めてだ。
アスカとケンスケには何が起きていたのか
シンジは第3村で成長することを作劇上求められていました。
第3村で先生から学ぶべき何かのもう一つは、
「罪」
ではないでしょうか。
一つ前のブログで書きましたが、
先生であるトウジはシンジに罪の告白をしました。
これはシンジにとって、メメントモリの認識につながる大事な経験でした。
また、尊敬する先生からの罪の告白は、大人への幻想を解きほぐし親を相対化することにつながる大事な経験でもあります。
一方で、もう一人の先生であるケンスケは罪の告白をしていません。
ケンスケには告白すべき罪などないということでしょうか。
罪の告白はトウジの役割ということでしょうか。
私はそうは思いませんでした。
ケンスケはどこか超然とし過ぎているように感じました。
また、ケンスケの家は妙に殺風景過ぎるように感じました。
私は、ケンスケは、「罪を告白できない先生」の役を果たしたのだと思います。
だから、ケンスケは、達観しており、その反面で生への執着を半分失いかけているように見えるのではないでしょうか。
まるで夏目漱石「こころ」の「先生」のように。
シンエヴァは、「過去」に目を向けることで、ビルドゥングスの系譜に自らを位置付けることで何とか物語を未来に拓く推進力を得ようとした作品だと考えます。
西洋ビルドゥングスロマンを受け継いだ近代日本文学の先達から可能な限りモチーフを得ようとしたのではないでしょうか。
そういえば第3村には「猫」もよく出てきましたね。
いかにも「吾輩はー」なんて考えていそうなとぼけた味わいの猫でした。
ケンスケがアスカの裸を見ても全く動じずにタオルをかける場面があります。
かなりショッキングな場面です。
私も死にかけました。
「あれは二人が恋仲だからである。あの場面に性の匂いを感じないのは鈍過ぎる」
「あれは二人が擬似親子だからだろ。すぐにセックスを連想することこそ幼稚だ」
どちらの考えも一理あると思います。
14年の間に、どちらの要素も含んだ上で、動物と飼育員、ペットと飼い主、神様と宮司といった要素も含んだグロテスクな関係になっていったと私は読みます。
アスカはほっときゃ全裸か半裸でウロウロしています。まるで動物か神様のように。
そもそも、ケンスケの家はなぜ集落から少し離れているんでしょうか。
二人が単なる擬似親子なら、単なる恋仲なら集落の近くでワイワイ暮らせばいいはずです。
現にケンスケはトウジに日常的に会いに行ったりしています。
アスカはどうして村人との交流を絶たれているのでしょう。
ケンスケは「諸事情」としか言わない。
アスカは「私は村を守る存在だ」「村はリリンが多くてうっとうしい」と言っている。
しかし、エヴァに乗らないアスカに村を守る力はないはずです。
村の女性達は「働ければ誰でもいい」とレイを受け入れていました。
労働力は慢性的に不足しているはずです。
アスカは、第3村で過去に何らかの「禁忌」を犯したのではないでしょうか。
乱倫、不倫、人肉食、屍肉、屍姦、近親相姦、子殺し、親殺し…
古今東西の村には犯さざるべき共通の禁忌があります。
そのどれかをアスカは過去に犯した。
本人に故意も記憶もないかもしれません。
村人全員が知っていることではないのかもしれません。
しかし、一度「穢れ」を帯びてしまったら村に残ることはできない。
「もののけ姫」の旅立ちシーンですね。
アスカが村の女性達と農作業をすることはないし、アスカとともに村を離れたケンスケが村の男達と食卓を囲むこともない。
アスカは食欲を失い水しか飲めない。睡眠欲を失い眠れない。おそらく性欲も失っている。
欲は満たせば収まりますから禁忌を犯すほど暴走はしません。
ただ、欲がなければ、コップの底がそもそも抜けていたら、これを満たすことはできません。
半分人外と化しているアスカが一たび暴走すれば、食にも睡眠にも性にもブレーキはかかりません。
村中の男と関係をもっても、村人の屍肉を漁っても、そこにリミッターはかかりません。
そして、ケンスケはかつてアスカが禁忌を犯したことのトリガーを引いたのかもしれません。
おそらくは「カメラ」を用いた行為によって。
ただ、自らの外見を性的に消費されることはアスカのアイデンティティを揺るがす問題であり、人外部分が作動するトリガーであった。
トリガーを引かれたアスカは性に関するタブーを犯し、食に関するタブーを犯し、数年眠り続けた。
だからケンスケはシンジに釣り竿は渡せてもカメラは渡せない。
カメラ(銃口)をアスカに向けることもできない。
少なくともシンジが成長してヤマト作戦という勝ち確ルートを選ぶその日まで、アスカという銃弾を放つことはできない。
禁忌を犯したアスカをケンスケは村から引き離し眠りから覚めるのをひたすら祈って待ち続けた。
人望の厚いトウジが村の中の秩序は守る。
ケンスケは村外パトロールの役目を果たしながら村の外でアスカと村を守り続ける。
第3村は決して単純な理想郷として描かれていません。
「お天道様に顔向けできないこと」、と抽象的に表現されたことで、トウジが生きるために犯した罪の邪悪さは観客の中で無限に想像される余地が残されています。
また、ケンスケがどうしようもなくまとう憂い。
表面上の理想郷を保つための歪みは物語上ケンスケが一手に引き受けているように見えます。
秘密を抱え続けるケンスケは生への執着を失いかけていた。
そこにシンジが現れた。
旧友であり弟子。いつかは旅立つマレビトでもある。
秘密を打ち明けるには絶好の相手です。
でもケンスケはどうしても罪の告白をできない。
シンジの初恋の人がアスカであることをケンスケは知っています。
「こころ」で言えば、シンジはケンスケにとって「K」でもあり「私」でもある。
先生が「私」(シンジ)に秘密を告白する場合には、「先生」(ケンスケ)も「K」(シンジ)もどちらも死ぬしかない。
こころ以上に複雑で悲劇的な関係性です。
「罪を告白できない先生」ケンスケは、結果的に、シンジの知的情緒的成長を爆発的に促進します。
シンジは、どうして言ってくれないのか何があったのか…想像力をフル動員して、真実にギリギリまで迫って、それでも直接暴き立てることは自制する、そんな繰り返しの日々だったはずです。
その繰り返しが、ヴンダーに乗ることを決めた時のシンジの成熟した佇まいに繋がるのではないでしょうか。
シンジを見送るケンスケも、寂しいようなホッとしたような、何とも言えない複雑な表情をしていました。
ホッとするのも分かります。
二人ともいつ死んでおかしくない日々がようやく終わった。
シンジが成長することで、やっとアスカにカメラを向けることができた。
ヴンダー乗船後の展開に緊張感がないのは当然です。
ここまで来ればもう負けるはずがないから。
アスカという弾丸はひたすら真っ直ぐ突き進む。
ヴンダー(魚形状)はモリで突き刺され、手のひらサイズのガイウスの槍というルアーが登場し、ひたすらにリールが回って「魚」が釣り上げられる。
親の相対化なんてもはや楽勝でしょう。
ゲンドウの少年時代もCGクオリティの低さも特撮セットもミサトの部屋の書き割りも新たな用語も、何もかもが、
「この辺はどうでもいい」
ということだけを表現し続けます。
できることなら笑ってほしいという作り手の願望すら見えます。
Aパートですでに決着は着いている。
そのように感じました。
ケンスケがシンジを「墓参り」に連れて行った理由
シンジは第3村で成長することを作劇上求められていました。
第3村で先生から学ぶべき何かの一つは、
「メメントモリ(死を忘る勿れ)」
ということではないでしょうか。
シンジはケンスケのお父さんのお墓参りに連れて行かれました。
そこでケンスケから、ケンスケのお父さんはニアサーを生き延びだ後に事故で亡くなったと聞かされます。
ニアサーに関係ない事故死。
あってもなくてもよさそうな、観客から真っ先に忘れ去られそうなシーンです。
ただ、妙に引っかかるシーンでもあります。
おそらく、これはシンジが先生から学ぶべき大前提だったんじゃないでしょうか。
「人はいつか死ぬ。
思いもよらない理由であっけなく死ぬこともある。」
そういえば、トウジもケンスケと同じく、第3村で「先生」と呼ばれていましたよね。
もう一人の「先生」であるトウジから、
自分が医師免許をもたないこと、そんな自分がどんな思いで医療を行なっているかを聞きます。
自分と周りの人が生きるために「お天道様に顔向けできない」ことをやったという罪の告白も。
ひたすらに実直で正義感の強い少年時代のトウジをシンジは知っています。
この告白を受けたシンジの衝撃はいかほどのものだったでしょう。
「人はいつか死ぬ。
思いもよらない理由であっけなく死ぬこともある。」
「やるだけやっても死ぬこともある。
でも虚無的に生きるわけにはいかない。」
「一つの命を守るために、信念を曲げてでも、資格がなくても、命がけでやるべきことをやっている人がいる。」
その後、第3村で難産の末に赤ちゃんが生まれるシーンがありました。
シンジにとってもはや第3村の生活の全てが「先生」です。
「人はいつか死ぬ。
思いもよらない理由であっけなく死ぬこともある。」
「やるだけやっても死ぬこともある。
でも虚無的に生きるわけにはいかない。」
「一つの命は誰かの『命がけ』のおかげで生まれている。」
「自分がいま生きていることは全然当たり前じゃない。」
「死を忘る勿れ」
「メメントモリ」を学んだシンジにとっては、その後の生活一つ一つが成長の糧だったはずです。
ごはんを食べても作っても、共同浴場に行っても釣りをしても、第3村の何から何までがシンジを劇的に成長させたはずです。
その成果が、ヴンダーに乗ることを決めたシンジの、エヴァに乗ることを決めたシンジの、あの安定感・風格に繋がったのだと思います。
「誰かに強制されて乗るわけじゃない。
自分の命を軽く扱っているわけでもない。
第3村の人と同じく自分がやるべきことをやる。
できるかどうか、資格があるかは関係ない。
やるべきことをやる。」
Aパートヤバいですね。
これだけのことを学んだシンジが「先生のところにいた」生活を
「何もなかった」
なんて言えるはずがありません。
TV版第1話でも序の冒頭とは別人です。
なぜシンジは「釣り竿」を受け取ったのか
シンエヴァのシンジは第3村で成長する必要がありました。
第3村で先生から学ぶべき何かの一つは、
「待つ」
ことではないでしょうか。
シンジがケンスケから渡されたのは釣り竿でした。
釣りに「待つ」ことは不可欠です。
魚が食いつくまで釣り糸を垂らして時間を経過させるしかない。
でも、経験ある人は分かるでしょうが、
釣りにおける「待つ」のは単に受け身の姿勢ではありません。
狙う魚の生態を知り、仕掛けを作り、魚が食いつきそうな餌を準備して、釣り糸を静かに動かす。
魚がはっきり食いつく「その時」までにやることをやって準備する。
それが釣りにおける「待つ」ということです。
「魚を釣れる男になれ」
それが「先生」であるケンスケからの課題だったのです。
最初の釣りで一匹も釣れずに悔しがり恥ずかしがるシンジ。
きっとあの後必至に釣りにおける「待つ」方法を学んだことでしょう。
ヴンダーに乗ることを決めたシンジ、初号機に乗ることを決めたシンジは、
妙な安定感、大人の風格さえ帯びているように見えました。
ゲンドウに乗れと言われた時とはもちろん違いますし、ミサトに乗るのか乗らないのか自分で決めろと言われた時とも違いました。
必要な準備は済ませている。
乗るべき時が来たから乗るだけ、魚が食いついたからリールを巻くだけ、というような。
そういえば、まずは先生であるケンスケがシンジのことをひたすら待ってくれましたね。
アスカにお弁当のお礼とともに「好きだった」と伝えられた時もそうです。
「僕も好きだった」と伝えるのは今じゃない。
言うべき時は待てばくる。
まだ魚は食いついてない。リールを巻くのは今じゃない、というような。
座っている体勢も釣り人のように見えなくもありません。
マリが「よくやっている」と言ったのはそういうことではないでしょうか。
待てる男はモテる男とはよく言ったものです。
主演とはいえ、演者として関わる映画では、監督として関わる場合よりもコントロールできない部分がはるかに大きいものだと推測します。
脚本が来るまで待つしかない、キューが来るまで待つしかない、完成するまで待つしかない、待つことの難しさと苦労を学んだのではないでしょうか。
同時に、待つことの大切さも学んだはずです。
「風立ちぬ」完成後の庵野監督の佇まいには、宮崎監督に嫌々やらされましたという被害者意識もなく、俺素人だからというような開き直りもなく、素人なりにやるだけのことはやったという満足感というか諦念というか、とにかく強い何かが感じられました。
宮崎監督から受け取ったものの大きさと重さを改めて見つめ直したのではないでしょうか。
「待つ」ということにおいては観客も負けてません。
エヴァを好きになるとはひたすら「待つ」ことです。
程度の差こそあれ観客はとにかく待ちました。
最後はコロナによる公開延期も待ちました。
自然に対峙して魚が来るのを待つ。
釣りをするシンジにはエヴァを待つ観客も重ねられているのではないでしょうか。
待つことを学んだ庵野監督だからこそできる演出だと思います。
そして、ひたすら待ち続けた観客だからこそ、
シンジと同時に
「魚が来た」
と感じ取り、
「リールを巻く」
(親を赦し、過去を認めて、他者と未来に開かれる)
行動の一つ一つにシンクロできるんだと思います。
そういえば、ガイウスの槍は最終的に手のひらサイズのルアーのような形でした。
生成過程もどことなく釣りのリールのように描かれていたような気がします。
あと、ヴンダーは魚の形をしていて、モリで突かれるように仕留められてましたね。
意外と釣り竿は大切な小道具だったと感じます。