アスカとケンスケには何が起きていたのか

シンジは第3村で成長することを作劇上求められていました。

第3村で先生から学ぶべき何かのもう一つは、

「罪」

ではないでしょうか。

一つ前のブログで書きましたが、
先生であるトウジはシンジに罪の告白をしました。
これはシンジにとって、メメントモリの認識につながる大事な経験でした。
また、尊敬する先生からの罪の告白は、大人への幻想を解きほぐし親を相対化することにつながる大事な経験でもあります。

一方で、もう一人の先生であるケンスケは罪の告白をしていません。
ケンスケには告白すべき罪などないということでしょうか。
罪の告白はトウジの役割ということでしょうか。
私はそうは思いませんでした。
ケンスケはどこか超然とし過ぎているように感じました。
また、ケンスケの家は妙に殺風景過ぎるように感じました。

私は、ケンスケは、「罪を告白できない先生」の役を果たしたのだと思います。

だから、ケンスケは、達観しており、その反面で生への執着を半分失いかけているように見えるのではないでしょうか。
まるで夏目漱石「こころ」の「先生」のように。
シンエヴァは、「過去」に目を向けることで、ビルドゥングスの系譜に自らを位置付けることで何とか物語を未来に拓く推進力を得ようとした作品だと考えます。
西洋ビルドゥングスロマンを受け継いだ近代日本文学の先達から可能な限りモチーフを得ようとしたのではないでしょうか。
そういえば第3村には「猫」もよく出てきましたね。
いかにも「吾輩はー」なんて考えていそうなとぼけた味わいの猫でした。

ケンスケがアスカの裸を見ても全く動じずにタオルをかける場面があります。
かなりショッキングな場面です。
私も死にかけました。
「あれは二人が恋仲だからである。あの場面に性の匂いを感じないのは鈍過ぎる」
「あれは二人が擬似親子だからだろ。すぐにセックスを連想することこそ幼稚だ」
どちらの考えも一理あると思います。
14年の間に、どちらの要素も含んだ上で、動物と飼育員、ペットと飼い主、神様と宮司といった要素も含んだグロテスクな関係になっていったと私は読みます。
アスカはほっときゃ全裸か半裸でウロウロしています。まるで動物か神様のように。

そもそも、ケンスケの家はなぜ集落から少し離れているんでしょうか。

二人が単なる擬似親子なら、単なる恋仲なら集落の近くでワイワイ暮らせばいいはずです。
テクノロジーが未発達な第3村で暮らすなら、集落に近い方が何かと便利なはずです。共同浴場も近いし。
現にケンスケはトウジに日常的に会いに行ったりしています。
アスカはどうして村人との交流を絶たれているのでしょう。

ケンスケは「諸事情」としか言わない。
アスカは「私は村を守る存在だ」「村はリリンが多くてうっとうしい」と言っている。
しかし、エヴァに乗らないアスカに村を守る力はないはずです。
村の女性達は「働ければ誰でもいい」とレイを受け入れていました。
労働力は慢性的に不足しているはずです。

アスカは、第3村で過去に何らかの「禁忌」を犯したのではないでしょうか。

乱倫、不倫、人肉食、屍肉、屍姦、近親相姦、子殺し、親殺し…
古今東西の村には犯さざるべき共通の禁忌があります。

そのどれかをアスカは過去に犯した。
本人に故意も記憶もないかもしれません。
村人全員が知っていることではないのかもしれません。
しかし、一度「穢れ」を帯びてしまったら村に残ることはできない。
 「もののけ姫」の旅立ちシーンですね。
アスカが村の女性達と農作業をすることはないし、アスカとともに村を離れたケンスケが村の男達と食卓を囲むこともない。

アスカは食欲を失い水しか飲めない。睡眠欲を失い眠れない。おそらく性欲も失っている。
欲は満たせば収まりますから禁忌を犯すほど暴走はしません。
ただ、欲がなければ、コップの底がそもそも抜けていたら、これを満たすことはできません。
半分人外と化しているアスカが一たび暴走すれば、食にも睡眠にも性にもブレーキはかかりません。
あくまで森の中の「人間」として描かれた「もののけ姫」のサン以上に危うい存在がシンエヴァのアスカです。
村中の男と関係をもっても、村人の屍肉を漁っても、そこにリミッターはかかりません。

そして、ケンスケはかつてアスカが禁忌を犯したことのトリガーを引いたのかもしれません。
おそらくは「カメラ」を用いた行為によって。
ただ、自らの外見を性的に消費されることはアスカのアイデンティティを揺るがす問題であり、人外部分が作動するトリガーであった。
トリガーを引かれたアスカは性に関するタブーを犯し、食に関するタブーを犯し、数年眠り続けた。
だからケンスケはシンジに釣り竿は渡せてもカメラは渡せない。
カメラ(銃口)をアスカに向けることもできない。
少なくともシンジが成長してヤマト作戦という勝ち確ルートを選ぶその日まで、アスカという銃弾を放つことはできない。

禁忌を犯したアスカをケンスケは村から引き離し眠りから覚めるのをひたすら祈って待ち続けた。
人望の厚いトウジが村の中の秩序は守る。
ケンスケは村外パトロールの役目を果たしながら村の外でアスカと村を守り続ける。

第3村は決して単純な理想郷として描かれていません。
「お天道様に顔向けできないこと」、と抽象的に表現されたことで、トウジが生きるために犯した罪の邪悪さは観客の中で無限に想像される余地が残されています。
また、ケンスケがどうしようもなくまとう憂い。
表面上の理想郷を保つための歪みは物語上ケンスケが一手に引き受けているように見えます。

秘密を抱え続けるケンスケは生への執着を失いかけていた。
そこにシンジが現れた。
旧友であり弟子。いつかは旅立つマレビトでもある。
秘密を打ち明けるには絶好の相手です。
でもケンスケはどうしても罪の告白をできない。
シンジの初恋の人がアスカであることをケンスケは知っています。
「こころ」で言えば、シンジはケンスケにとって「K」でもあり「私」でもある。
先生が「私」(シンジ)に秘密を告白する場合には、「先生」(ケンスケ)も「K」(シンジ)もどちらも死ぬしかない。
こころ以上に複雑で悲劇的な関係性です。

「罪を告白できない先生」ケンスケは、結果的に、シンジの知的情緒的成長を爆発的に促進します。
シンジは、どうして言ってくれないのか何があったのか…想像力をフル動員して、真実にギリギリまで迫って、それでも直接暴き立てることは自制する、そんな繰り返しの日々だったはずです。

その繰り返しが、ヴンダーに乗ることを決めた時のシンジの成熟した佇まいに繋がるのではないでしょうか。
シンジを見送るケンスケも、寂しいようなホッとしたような、何とも言えない複雑な表情をしていました。

ホッとするのも分かります。
二人ともいつ死んでおかしくない日々がようやく終わった。
シンジが成長することで、やっとアスカにカメラを向けることができた。

ヴンダー乗船後の展開に緊張感がないのは当然です。
ここまで来ればもう負けるはずがないから。

アスカという弾丸はひたすら真っ直ぐ突き進む。
ヴンダー(魚形状)はモリで突き刺され、手のひらサイズのガイウスの槍というルアーが登場し、ひたすらにリールが回って「魚」が釣り上げられる。

親の相対化なんてもはや楽勝でしょう。
ゲンドウの少年時代もCGクオリティの低さも特撮セットもミサトの部屋の書き割りも新たな用語も、何もかもが、
「この辺はどうでもいい」
ということだけを表現し続けます。
できることなら笑ってほしいという作り手の願望すら見えます。

Aパートですでに決着は着いている。
そのように感じました。