なぜシンジは「釣り竿」を受け取ったのか

シンエヴァのシンジは第3村で成長する必要がありました。

第3村で先生から学ぶべき何かの一つは、
「待つ」
ことではないでしょうか。

シンジがケンスケから渡されたのは釣り竿でした。

釣りに「待つ」ことは不可欠です。
魚が食いつくまで釣り糸を垂らして時間を経過させるしかない。
でも、経験ある人は分かるでしょうが、
釣りにおける「待つ」のは単に受け身の姿勢ではありません。
狙う魚の生態を知り、仕掛けを作り、魚が食いつきそうな餌を準備して、釣り糸を静かに動かす。
魚がはっきり食いつく「その時」までにやることをやって準備する。
それが釣りにおける「待つ」ということです。

「魚を釣れる男になれ」
それが「先生」であるケンスケからの課題だったのです。

最初の釣りで一匹も釣れずに悔しがり恥ずかしがるシンジ。
きっとあの後必至に釣りにおける「待つ」方法を学んだことでしょう。

ヴンダーに乗ることを決めたシンジ、初号機に乗ることを決めたシンジは、
妙な安定感、大人の風格さえ帯びているように見えました。
ゲンドウに乗れと言われた時とはもちろん違いますし、ミサトに乗るのか乗らないのか自分で決めろと言われた時とも違いました。
必要な準備は済ませている。
乗るべき時が来たから乗るだけ、魚が食いついたからリールを巻くだけ、というような。
そういえば、まずは先生であるケンスケがシンジのことをひたすら待ってくれましたね。

アスカにお弁当のお礼とともに「好きだった」と伝えられた時もそうです。
「僕も好きだった」と伝えるのは今じゃない。
言うべき時は待てばくる。
まだ魚は食いついてない。リールを巻くのは今じゃない、というような。
座っている体勢も釣り人のように見えなくもありません。
マリが「よくやっている」と言ったのはそういうことではないでしょうか。
待てる男はモテる男とはよく言ったものです。

庵野監督も、「風立ちぬ」に主演したことで「待つ」ことを学んだのではないでしょうか。

主演とはいえ、演者として関わる映画では、監督として関わる場合よりもコントロールできない部分がはるかに大きいものだと推測します。
脚本が来るまで待つしかない、キューが来るまで待つしかない、完成するまで待つしかない、待つことの難しさと苦労を学んだのではないでしょうか。
同時に、待つことの大切さも学んだはずです。
風立ちぬ」完成後の庵野監督の佇まいには、宮崎監督に嫌々やらされましたという被害者意識もなく、俺素人だからというような開き直りもなく、素人なりにやるだけのことはやったという満足感というか諦念というか、とにかく強い何かが感じられました。
さらに、長い時間をかけて「風立ちぬ」の世界を生ききったからこそ、宮崎駿の投影としか思えない堀越二郎を演じきったからこそ、
宮崎監督から受け取ったものの大きさと重さを改めて見つめ直したのではないでしょうか。
「カメラをもつ軍事オタクの先生」である大人ケンスケには、どことなく庵野監督から見た宮崎駿像が投影されているようないないような。
「第3村で魚釣りを学ぶシンジ」には、ジブリ的価値観からエヴァを相対化する庵野監督が投影されている気がします。

昭和的田園風景も取り入れたい、命令されるチルドレンじゃなくて喜びとともにはたらく子供を描きたい、赤ちゃんを魅力的に描きたいおばあちゃんを魅力的に描きたいなんならダイダラボッチ的にエヴァも描きたい…
今の自分ならジブリ的意匠を消化して昇華できるという確信、持ち込んだジブリ的意匠が物語を未来に開く推進力になるという確信がAパートには満ち満ちています。

「待つ」ということにおいては観客も負けてません。
エヴァを好きになるとはひたすら「待つ」ことです。
程度の差こそあれ観客はとにかく待ちました。
最後はコロナによる公開延期も待ちました。

自然に対峙して魚が来るのを待つ。
釣りをするシンジにはエヴァを待つ観客も重ねられているのではないでしょうか。
待つことを学んだ庵野監督だからこそできる演出だと思います。

そして、ひたすら待ち続けた観客だからこそ、
シンジと同時に
「魚が来た」
と感じ取り、
「リールを巻く」
(親を赦し、過去を認めて、他者と未来に開かれる)
行動の一つ一つにシンクロできるんだと思います。
そういえば、ガイウスの槍は最終的に手のひらサイズのルアーのような形でした。
生成過程もどことなく釣りのリールのように描かれていたような気がします。
あと、ヴンダーは魚の形をしていて、モリで突かれるように仕留められてましたね。

意外と釣り竿は大切な小道具だったと感じます。